以前生け花を習っていましたが、私は型にはまりがちで自由に生けることが苦手になってしまいました。
今は自宅で花を生けることを楽しんでいます。
花を生ける中で気づいたことを書いていきたいと思います。
ナガミヒナゲシ
ベランダ前に急激に増えたナガミヒナゲシ。
悩んだ末に駆除がてら沢山摘んで瓶に挿しておいたら次々と咲いた。
最初は葉を少し残しておいたけれど、写真を見るとそこだけ野暮ったい。
これは茎の自然な曲がりを楽しむのがよいと思った。
写真を撮って見ると不思議と客観的な視線で見れるのでおもしろい。
その爆発的な繁殖力が問題視されている雑草だが、花自体は無害で引き抜きやすい。何より可憐な姿の花だ。
気軽に摘んで楽しめるのもいい。
斜めに穴の開いた一輪挿し
この丸い一輪挿しは昔東京デザインフェスで買ったもので気に入っている。
けれど、斜めに穴が開いているデザインなのでなかなか思った位置に留められないというのがネックだった。
私は今まで剣山に生けるやり方しか習っていない。
何かいい方法があるかもしれないけれど、これを生けた時にひとつ気づいたことがあったのでメモしておこうと思う。
この5枝並んでいるドウダンツツジは、実はこの下にもう1本枝がある。
葉をとって湾曲させて挿し口に押し込んで根本を小花で留めるようにしてみたらどうにか固定できた。
何か細工をするなら挿し口の中だ。
枝ものは長く使うといいらしい。
追記
この一輪挿しの作者は陶芸作家の加藤あいさんという方だった。
買った時にいただいた名刺が見つかった。うれしい。
ガーベラにはワイヤーを
「ガーベラにはワイヤーを入れなさい」
生け花を習っていた頃によく先生に言われたことだ。
元々の首の曲がりを活かせば必要ないのではないかと内心思っていたけれど、後ろのガーベラを見ればその違いがよくわかる。
左がワイヤーを入れる前、右が入れた後だ。
花の向きだけでなく、左は茎の曲がりが他の花材との一体感を削いでいる。
なお中央のクリーム色のガーベラには最初からワイヤーを入れておいた。こうして後で微調整できるのもいい。
先生の教えは今も強く私の中に息づいていて、花を生けている間は「あら、あなたそこちょっと長すぎるんじゃなーい?」などと指導の声が聞こえるような気さえする。
もっとも先生はご健在なので完全に私の思い込みなのだけれど。
実際のところ、私は自分の中に先生の視線を置くことで先生の教えを思い出し、自分の生け花を客観視できているのだと思う。
とはいえ私は転職を機に教室を辞めた。
5年ほど通ったが、習えば習うほどどんどん自分の未熟さばかりが見え、始めた頃のように自由でダイナミックな花が生けられなくなっていたことが辛くなっていたのだ。
かと言って先生の指導が厳しかった訳ではなく、むしろよく褒めてくれていた優しい先生なので教え方とは関係ない問題だと思う。
先生の免許をとりたいとか上を目指していた訳では全くない。
今も昔も思うのは、ただ美しいと思える花を自分で生けれるようになりたいだけだ。
ネットやメディアの普及で目ばかり肥えてしまい、自分の実力がそれに届かないことを苦痛に感じる私はある種のナルシストなのだろう。しかも臆病なので評価されるのが怖いのだ。
それなのにこんな場所をお借りしているあたり多少の顕示欲はあるらしい。
もしここまで読んでくださっている方がいたら笑ってやってほしい。
でもこうして自分の生けた花達の姿や、思ったことを書き残しておきたいというのもまた本音なのだ。
ユリのめしべ
ユリが花開くと緋色のめしべが伸びてきて色を添える。
しかしその花粉は物につくと落ちにくく厄介だ。
ユリのめしべをどうするか、花を生ける人なら一度は考える問題だと思う。
単純に切ってしまえば問題はなくなる。
けれどあの色がなくなると途端に物足りなく感じられる。
やはりユリはこの姿が完全であり美しい。
そう感じてしまうのだから、生ける側が何らかの手段を講じなければならない。
私の場合、咲きはじめの頃にティッシュを真ん中くらいまで裂き、めしべおしべを囲むようにして花びらをカバーしながらヘアスプレーを丁寧にかける。
カバーをしないと花びらが汚れてしまう。
ほんの少しの手間だけれど、これでユリ本来の美しさをより長く楽しめる。
もっといい方法があればぜひ教えてほしい。
花を生けるという行為は花の命をいただく訳だから、自然のままの姿以上に美しくする使命がある。少なくともそのための努力をする気持ちが大事なのだと私は思っている。
ーーなどと高尚なことを宣うほどの技量がある訳では決してないのだけれど。
欲張っちゃいけない
梅雨入り後の土曜日、義母のお誘いを受けて庭のナツグミを採りに行った。
コロナ自粛が緩和されてから久方ぶりに夫と3人で楽しい時間を過ごした。
隣家の方に伸びている枝を切ってほしいと言われ、その枝を生け花用にいただいてきた。
ナツグミは枝全体にびっしりと鈴なりに実をつける。
生け花では実ものを使うこともあるが、こんなに沢山の実が重たげにぶら下がっている花材はなかなか見たことがない。
脇役にするには存在感があり過ぎるし、主役にするには全体的にぼてっとしていてメリハリがつけにくい。
となるとやはりある程度は実を間引かなければならなくなる。
生け花、とりわけ私の習っていた華道では空間を重視する。花でも葉でも同じように間引くことを教えられた。
最初はもったいないのとかわいそうなのとでなかなか思い切れずにいたが、ある講座で「引くのではなく、美しい空間を作っているのです」と言われてようやくそれがプラスの行為なのだと思えるようになったのを覚えている。
目で見える豊かさではなく、ゆとりある空間に精神的な余裕と美しさを見出した先人の感覚には頭が下がる思いがした。
とはいえ鈴なりの豊かな姿も見ているとうれしくなる。
大輪のユリを飾った時もそうだが、目で見える豊かさというものは心を躍らせる。
フラワーアレンジメントなどは逆に空間を埋めることで美しさを表現している。
つまりどちらにも良さはあるのだ。
いいとこどりしたいと考えるが、昔母が両方習った結果どっちつかずな花を生けるようになってしまったことを思うと、相反する個性は相殺されるのだろう。
よって使い分けるのが望ましいという結論に至った。
華道的な考えに囚われたくないと考えれば考えるほど、その奥深さを思い知らされる。
私が生けたい花とはいったい何だろう。
そんなことを考えながら大量のナツグミの枝を生け、これからの1.5kgの渋い実の処理に頭を悩ます私だった。
2021.11.8空間を作るとは
我が家の狭い玄関の下駄箱上のスペースは、あれもこれも飾りたくて時々こんな風にギュウギュウになってしまう。
そこに最近買った色の綺麗なグラスを一緒に置いてみた。
すると不思議な事に、何も置いてない時よりもかえって空間が広く感じられた。
比較してみるとそれがよりわかると思うのだが、どうだろうか?
空のグラスの「空の」部分が、より意識させられるからだろうか。
空間を作る、というのは引き算だけではないのだと考えさせられた。
花を生ける事は自分の思いを表現する事だと思っています。
見た目やテクニックだけて、手直しや批評をすれば作品は美しくなるかもしれませんが、それはその人の思いと、かけはなれた作品となってしまいます。
沢山色々な思いを聞かせて頂いた気がします。ありがとうございます😊
私も色々思いながら、花を生けていきたいと思います🌼🌿