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ロン
2020/02/14
【百人一首ゆかりの地】
~末の松山~
(宮城県多賀城市)
百人一首に収録されている
契りきな
かたみに袖を しぼりつつ
末の松山 波越さじとは
の歌に詠まれた「末の松山」です!
“末の松山”は、標高10mほどの場所にある小山です。
この歌は
「約束しましたね。互いに涙で濡れた袖を何度もしぼっては、あの末の松山を波が決して越さないように、二人の仲も末永く変わることはないと。」
という意味で、実際は、あれほど約束したのに心変わりしてしまったという女性に宛てて、詠まれた歌です。
作者は清少納言のお父さん・清原元輔ですが、失恋した男性に代わってこの歌を詠んだそうです。
ほかにも、“末の松山”を詠んだ歌!
君をおきて
あだし心を わがもたば
末の松山 浪もこえなむ
(古今和歌集 東歌)
「あなたを差しおいて浮気心を持つようなことがあれば、末の松山を波が越えることでしょう。」
これらの歌のとおり、“末の松山”を波が越えることは、実際には起こりえないことを意味しています。
実際に、百人一首の歌が詠まれる前の869年(貞観11年)、東北で貞観地震と呼ばれる大地震が発生し、大津波が襲ってきましたが、“末の松山”は、津波が麓まで押し寄せても越えることはなく、無事だったそうです。
このことが京の都に伝わり、“末の松山”は、決して波が越すことのない場所であり、“末の松山”を波が越えることは、起こりえないことと考えられたようです。
平成23年の東日本大震災でも、多賀城市にも津波が押し寄せましたが、“末の松山”は、無事でした。
この時、“末の松山”は津波が越えない場所だという言い伝えを知る住民の方は、ここに避難して、助かったそうです。
百人一首好きの私としては、とてもうれしいエピソードです(^_^)v
ちなみに、「多賀城」は
東北の政治、軍事、文化の中心地であり
「令和」で有名になった大伴旅人の息子であり、万葉集の編纂に関わったと言われる「大伴家持」が鎮守将軍として赴任していた所です。
ロン
2020/02/16
[@id:449102] さん
コメント、ありがとうございます。
かささぎ橋の歌も覚えてくれていましたね。
宮城県ゆかりの百人一首は、三首。
6 かささぎの 渡せる橋に
おく霜の 白きを見れば
夜ぞ更けにける
42 契りきな かたみに袖を
しぼりつつ 末の松山
波越さじとは
90 見せばやな 雄島のあまの
袖だにも 濡れにぞ濡れし
色は変はらず
かささぎ橋の歌の作者は、「令和」で有名になった大伴旅人の子ども・大伴家持。
「末の松山」は避難場所、「松島」の島々はあの猛烈な大津波の勢いを和らげる働きをして、松島町の人々を救った。
そういうことから、百人一首が今の時代にもつながったエピソードを知ると、とてもうれしくなります。
「田子の浦」とくれば、私の大好きな、ノンさんも大好きな「富士の高嶺」ですね。
ちなみに
「春過ぎて」は大和三山の一つ「天の香具山」、「天の原」は奈良公園の「三笠の山」。
昨日は、松島の雄島を見たくなって、行って写真を撮ってきて、早速投稿しました。
私が訪れた百人一首ゆかりの地は、宮城県の三箇所のほか、紅葉の歌に関係する奈良県の「みむろ山」、「たつたの川」。
奈良の都の「八重桜」は、いつも一緒にいます😊
「天の橋立」「吉野の里」「須磨」「淡路島」は何度も訪れていますが、百人一首を意識していなかったので、また、行きたいですし、「小倉山」「つくばね」なども、訪れてみたいです。
坂本龍馬ゆかりの地も訪れてみたいですし、百人一首ゆかりの地も訪れるとなると、「命さへながくもがなと思ひけるかな」🤗❗
ノンさん
これからも、よろしくお願いしますね(^_^)v
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ロン
2020/02/16
[@id:449102] さん
三首、それぞれ違いがあるものの、男性、女性とも、強い愛情、激しい恋心を感じます!
天の橋立を詠んだのは、和泉式部の娘ですが、母和泉式部による歌の代作疑惑をからかわれた娘が、即興で切り返した歌が
大江山 いく野の道の
遠ければ
まだふみもみず 天の橋立
今で言えば、セクハラ上司を若手社員がズバリ切り返したような、とても気持ち良い歌詠みです。
この「末の松山」に加え、松島の雄島の「渡月橋」、そして、しばらく、3.11を意識して投稿しますね。
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ロン
初投稿は、平成30年(2018年)7月、夏に咲く強い花・カンナの花でした。 散歩で出会った樹木・木の実、花々、自然の風景などを投稿しています。 ときどき、自分で育てている奈良の八重桜などの樹木・花も。 素敵な地で出会った風景、お寺なども、シリーズで投稿しています(「🏷️奈良シリーズ」など)。 百人一首が好きで、思うままに短歌、詩を詠むのも好きです。 咲いた花見て喜ぶならば 咲かせた根元の恩を知れ 樹木を見上げて楽しむならば 支える根元の恩を知れ 木の実を拾って楽しむならば 木の花、実の成長の恩を知れ 🏷樹木見上げ隊 立ち止まって樹木を見上げた先に広がる幹と枝葉、空と木漏れ日が描く素敵な光景に魅了され、「樹木を見上げたい思い」「樹木を見上げた感動」を共感できる場として🏷️樹木見上げ隊を立ち上げています。 🏷樹木育て隊 「樹木を育てたい❣」思いを共有できる🏷樹木育て隊を立ち上げました。 🏷️観察日記では、お花、にんじん🥕等の切れ端栽培等を投稿しています。 🏷似てるシリーズ 見た目が似ているもの同士を比べたもの、似ているお花、樹木等の同じ所・違う所、見分け方などを学んだことを紹介しています。 植物たち🌲🌸は、そこに在る、立っている、咲いていることにより、人に、美意識、季節感、心の癒やし、身体の健康、人とのつながりをもたらしてくれます。 皆様のお写真を見せていただき、言葉を交わす中で大きな喜びを頂いており、感謝しています。 よろしくお願いいたします! (R6.8/23更新)
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仙台
~末の松山~
(宮城県多賀城市)
百人一首に収録されている
契りきな
かたみに袖を しぼりつつ
末の松山 波越さじとは
の歌に詠まれた「末の松山」です!
“末の松山”は、標高10mほどの場所にある小山です。
この歌は
「約束しましたね。互いに涙で濡れた袖を何度もしぼっては、あの末の松山を波が決して越さないように、二人の仲も末永く変わることはないと。」
という意味で、実際は、あれほど約束したのに心変わりしてしまったという女性に宛てて、詠まれた歌です。
作者は清少納言のお父さん・清原元輔ですが、失恋した男性に代わってこの歌を詠んだそうです。
ほかにも、“末の松山”を詠んだ歌!
君をおきて
あだし心を わがもたば
末の松山 浪もこえなむ
(古今和歌集 東歌)
「あなたを差しおいて浮気心を持つようなことがあれば、末の松山を波が越えることでしょう。」
これらの歌のとおり、“末の松山”を波が越えることは、実際には起こりえないことを意味しています。
実際に、百人一首の歌が詠まれる前の869年(貞観11年)、東北で貞観地震と呼ばれる大地震が発生し、大津波が襲ってきましたが、“末の松山”は、津波が麓まで押し寄せても越えることはなく、無事だったそうです。
このことが京の都に伝わり、“末の松山”は、決して波が越すことのない場所であり、“末の松山”を波が越えることは、起こりえないことと考えられたようです。
平成23年の東日本大震災でも、多賀城市にも津波が押し寄せましたが、“末の松山”は、無事でした。
この時、“末の松山”は津波が越えない場所だという言い伝えを知る住民の方は、ここに避難して、助かったそうです。
百人一首好きの私としては、とてもうれしいエピソードです(^_^)v
ちなみに、「多賀城」は
東北の政治、軍事、文化の中心地であり
「令和」で有名になった大伴旅人の息子であり、万葉集の編纂に関わったと言われる「大伴家持」が鎮守将軍として赴任していた所です。